他人志向型

備忘録的に

電気

めっきり寒くなってしまった。

 

季節が変わったときはいつも、「数年前のこの時期は何をしてて、何を考えていたっけか」と振り返ることにしている。10年くらいの頭のデータベースの中から、11月後半~12月にかけてのことを検索してみて、思い出したのは高校2年の冬だった。

 

その頃は特に目標もなくて、成績も中の中で、部活を頑張っていたわけでもなかったので、登校は作業の一貫のような位置づけだった。友人も多くはなかった。

だから、孤独な自分に酔っ払ってばかりでいて、酔っ払い方がうまくなるばかりの冬だった。寒さが相まって、自転車通学の40分間は地味に堪えるものだったけども、自分に酔うには丁度な時間でもあった。一人でシャワーを浴びてるときと似た感じに。

 

イヤホンをつけた状態で自転車を運転していて(今なら厳罰モノだ)、確か椿屋四重奏をよく聴いていたはずだ。湿っぽい歌謡ロックが自分の心の状態と気候にぴったし来た。夕方に寄り道をして近所のショッピングモールに行ったり、そこで地元の高校生・中学生とすれ違ったりするときも、あのちょっとこもった声を聴いていた。

 

ともかく、その頃は人とのコミュニケーションが少なかったせいで、コンテンツに対する入り込み方が尋常ではなかった。「現実逃避」って言葉があるけど、逃避のためには逃避先が、当然に必要であって、まさしく逃避先の一種の世界として、コンテンツやフィクションを捉えていた気がする。

 

 

最近また、「何をしてる人なの?」と聞かれる機会が増えた。これは単に職業や所属を指すのではなくて、「どういうことに興味関心があって、それをライフワークにしていて、自分自身のテーマをいかに定めているの?」ということを問われているみたい。

 

人文学系の学部にいると兎角この質問が多くて、在学中は何度も辟易とした。つまり、「自分は○○な人です」と説明できることが求められていて、それから外れると「つまらない人」だと思われてしまう。面と向かって「君は”見るべきところ”のない人だね」と言われてしまったこともある。俺は文学作品ではないし、研究対象でもないぞ、と思った。

 

文化人であることを求められる環境においては、何かを思案し、問題意識を持っていることや、それがアカデミズムの土台で議論できることが価値であるらしい。なんとなくそこそこ勉強でできただけでそこそこの大学に来てしまって、その後、平凡で安定した飯の種を得るべく動いていた自分には、そんな人生を懸けるような大それたことを求められては困る。

だからそういう文化人のお歴々が就職活動における「個性偏重」を叩いているのを見ると、まあ面妖な気分になる。人の価値を勝手に判断してるのはお互い様で、むしろ数字と順位ではっきりと優劣つけられる方が潔いとさえ。

 

ともあれ、大学を卒業したいま、そういう(勝手に感じてしまった)圧力からは解放をされている。好きに本を読んで、好きに煙草を吸って、好きにお酒を飲む。来るべき時期に来たらみんなと同じようにライフプランを組み、同じように働き、同じように悩んで、平凡なところに落ち着く。小市民になる。いい事だと思う。

 

そういえば最近電気ブランを飲んだ。ちょっと信じられないくらいに酔いが早く回ることに驚いた。祖母が今月末にこっちの家に来るので、ボトルの残りはそれまでとっておきたいと思う。